海上自衛隊は、日本で数少ない飽和潜水という方法を用いて、恒常的に潜水作業をしている組織の一つ。
飽和潜水は潜水艦や航空機救難、海底遺失物捜索など、決して欠かすことのできない重要な任務を背負う。
潜水艦が安心して潜れるのは、飽和潜水員や深海救難艇を配置する、潜水艦救難艦が稼働していることが前提にある。
そんな名誉ある飽和潜水員への道のりは、決して楽なものではない。
健全堅牢な肉体の維持はもちろん、円滑なチームワーク、卓越した潜水技術、様々な潜水機器取り扱いの習熟や知識のアップデートなど、練度維持向上にかける時間は他の追随を許さない。
海上自衛官が、飽和潜水員になるためには3つの教育課程をクリアする必要がある。
今回は、飽和潜水員になるまでの、教育課程3つを解説していく。
最初にして最大の難関!「開式スクーバ課程」
一番最初は、潜水の登竜門(鬼門?)「開式スクーバ課程」
期間は約2か月、広島県江田島市にある、第一術科学校で教育が行われる。
開式スクーバ課程は、まずその課程を受講するに足る素養があるか事前検査がある。
- 30mまでタンクで加圧され耳抜きができるか
- 25mの無呼吸潜水
- 45mの潜水(3回呼吸可)
- 10分以内で400m完泳(泳法自由、途中に泳法変更も可)
- 水深3mにある5kgの重りを水面上で保持(顔も水面上に出す)
- フィンを使用し距離25m5kgの重り運搬
30m相当までの加圧は、耳抜きさえ出来れば問題ない、ただし加圧するスピードが結構速いので、片手はオーケーサイン、片手で常時鼻をつまんでおくと安心。
2回までは待ったをかけられるが、3回目の中断でアウト。加圧をクリアできたとしても、無理な耳抜きのせいで、リバースブロックが起きると、今度は大気圧まで、なかなか戻ってこれなくなるので無理のし過ぎは厳禁。
25m無呼吸や45m息継ぎ4回以内についても、2回までチャレンジ可能。
練習で出来ていたのであれば、心を落ち着ければクリアできる。
潜水科の教官は屈強かつ強面が多い、そんな人達にガン見されたら嫌でも緊張する、もちろん脅されているのではなく、検査を受ける学生候補者たちが、溺れてしまわないよう監視しているだけ、周りを気にせず検査に集中だ。
10分以内で400m完泳も、1分で40mのペースなんで、時計を見ながら焦らずペースを守れば、よほどの金槌でない限り大丈夫。
余裕のある人は、途中泳法の変更は可能なので、体力のある前半はクロールで泳ぎ、疲れたら平泳ぎにする方法もある。
細かい検査内容については、事前に教官に質問しておくと、無駄にキツイ思いをすることなく合格できるかも。
水深3mにある5kg重りを持って水面に顔を出す、通称『錘上げ』は、一番脱落者が多い”候補者キラー選別試験”だ。
他の試験は、誤魔化し誤魔化しでクリアできなくもないが、これは結構ガチでキツイ、泳ぐのがあまり得意でない人にとってはかなりの難関。
なぜかというと、足が付かない所で泳ぐ機会がほとんどないため、進むことはできても、浮くことができない人が多いのが現実。
錘上げに必要な技術は、速く泳ぐことではなく浮くこと。
浮くためには、目一杯息を吸って止める、平泳ぎか巻き足で立ち泳ぎする必要がある。
本来、錘上げしてわずかな時間保持できれば合格なのだが、何故か保持中に、「階級」「氏名」「意気込み」を高らかに宣言する茶番があったりする。
水泳経験者でも、まずやることのないシチュエーションなので、水に慣れていない人が落ちるのも仕方がない、アドバンテージがある人は水球かシンクロ経験者くらい。
これらの厳しい事前検査を、無事通過できた選ばれし挑戦者のみが、ようやく開式スクーバ課程の教育を受けることができる。
約2週間で、おおまかな潜水基礎知識を頭に詰め込んだのち、ブール実習、海実習と続いていく。
今後潜水で生きていく人が進む道「潜水課程」
開式スクーバ課程を経て、潜水を生業として生きていくことを選んだ、専業ダイバー希望者が集うのが「潜水課程」
期間は3か月半、場所は開式スクーバ課程と同じく、広島県江田島市の第一術科学校。
潜水課程はスクーバ課程と違い、すでに基礎教育を乗り切っているので、事前検査は少ない。
特徴的な検査を挙げると、酸素中毒が起きやすいかどうかの検査がある。
潜水課程では、開式スクーバ課程より深く潜る機会が多くなり、減圧症のリスクが高まる。
減圧症の治療には、100%酸素を高圧環境下で使用することが多く、酸素中毒を起こしやすいと減圧症の治療に差し支えるから。
万が一に備え、自分の身を守るために必要な検査となっている。
潜水課程では、飽和潜水の基礎となる他吸気式潜水器の取扱や潜水法、機雷を処分するために作られた、非磁性で排気音の少ない半閉式スクーバ潜水器の組み立て調整など、より多彩な潜水について学びを深めていく。
潜水課程修了後、それぞれの希望により、飽和潜水員と水中処分員の道に分かれる。
潜水課程後の体たらくはこちら
~深海への挑戦~より深くより安全に潜る「飽和潜水課程」
飽和潜水員の教育の場は、神奈川県の横須賀市にある、潜水医学実験隊と呼ばれる海上自衛隊の防衛大臣直轄部隊、教育期間は約3か月半。
私が教育を受けた当時は、久里浜地区にあったが、2013年に田浦地区に移転。
教育内容は、もちろん飽和潜水に関する歴史や潜水物理、潜水生理、潜水機器に関する知識を習得すること。
飽和潜水に必要な知識は膨大、一つ一つの実習に臨むまで必要とされる知識量は、今まで終業してきた課程の比ではない。
深海に生身でしかも安全に潜るためには、それだけ多くの情報をインプットする必要がある。
空気のみならず、様々な比率のヘリウム酸素を使用した、深海シミュレーションダイブ、水上で減圧を必要とする潜水など、実習はシチュエーションも潜水方法も多岐に及ぶ。
教育課程の集大成として、60mの飽和潜水を約1週間、ダイバーとしてもテンダーとしても経験したのち終業となる。
飽和潜水は、大規模な装置やテンダーなくして実施できない、EODからは”殿様ダイバー”と揶揄されることもある。
しかしそれは、飽和潜水に関する知識がないことによる、単なる誤解や自身のスキルに対する奢りでしかない。
目的が違えば、方法も変えるのは当然であり、飽和潜水はあくまで潜水方法の一つ。
飽和潜水は、より深く長く安全に潜るため、多くの先人たちの犠牲の上に確立された、歴史ある潜水技法。
その特徴を生かした業務は、多岐にわたる。
海上自衛隊では
- 潜水艦救難(潜水艦の浮上、潜水艦乗員の救助・延命)
- 航空救難(航空機の搭乗員の収容、機体の回収)
- 深深度海中捜索物など
民間では
- 海上の建築物作り
- 海底に配管や通信ケーブルの設置
- 海上で大きな船を係留するための設備作り
- ダムの修理
- 深海に沈没した船舶からの燃料油、有害物質の除去、船体の撤去など
他の潜水方法では不可能な深度での作業を、飽和潜水は可能としている。
現在は、ROVなどの導入により、1000m以上の深海での捜索やサンプル採取などが可能となっているが、数十mから450mまでの海域で、細かい作業ができる飽和潜水に代わる手段は、今のところ存在しない。
まとめ
飽和潜水員になるまでの教育課程3つをまとめる。
- 地獄の一丁目一番地『開式スクーバ課程』
- 潜水徽章貰ってダイバー気取り『潜水課程』
- 覚えること多過ぎ『飽和潜水課程』
全部の課程を終了するまで、約10か月、スクーバ課程は年3回、潜水課程は年2回、飽和潜水課程は年1回しかなく、よほどの幸運が重ならない限り、連続で課程に進むことはない。
一つ一つ教育が終わっては元隊に戻って、仕事をしつつまた希望を出して、次の教育課程に行けるのを待つの繰り返し。
最終的に、最初のスクーバ課程行ってから、飽和潜水員になるまで約2年くらい掛かった、それでも運がいい方。
中には部隊の都合で何年も待ち続け、下手をすると10年近く、潜水員になれずくすぶっている人も少なくない。
それでも、自分の信念を曲げることなく希望し続け、飽和潜水員になることができた人も沢山いる。
飽和潜水員になるために一番必要なものは、体力でも知識でもなく、絶対になってやるという強固な意志なのだろう。