海上自衛隊には恒常的に飽和潜水を実施している部隊が3か所あります。
その内2か所が神奈川県の横須賀にあります。
一つが第二潜水隊群所属の潜水艦救難艦ちよだ、もう一つが潜水医学実験隊です。
潜水医学実験隊ではより安全に飽和潜水を実施するため様々な実験が行われています。
実験の一つに飽和潜水時に起きるダイバーの身体的精神的変化についての研究があります。
30日間の飽和潜水のシミュレーションダイブ中に行った実験の中で特に大変だったものを3つ紹介しようと思います。
実際の海に潜り潜水作業をしてくるのとは一味違う苦労がありましたので今後飽和潜水を目指そうとしている方に少しでも参考になればと思います。
加圧期間中の睡眠脳波測定
6人1チームの飽和潜水で1名だけ実施するとても貴重な体験です。
しかし実際は毎晩頭に電極を張り付けそれが取れないようにネットを被ることになるので、誰もやりたがらない実験の一つです。
電極を張り付けるために伝導性があり粘着力の強い接着剤のようなものを使用してくっつけていきます。
電極もそれを固定するネットも煩わしいのですが、寝返りをうつのさえ制限されるのでかなりのストレスでした。
ただでさえタンク内は常に環境のガスを循環さるための装置の音がしていてお世辞にも快適な環境とは言えません。
電極のコードの長さに多少遊びはありますが気を付けていないとすぐに外れてしまい、正確なデータを取ることができません。
しかも電極の位置は頭頂部から後頭部周辺なので当然自分では付け直すことができないので、先輩に再度お願いすることになります。
外れないようにするのもストレス外れてもストレスという2重苦になります。
極めつけは起床後の電極取り外しです。
一晩かけてしっかりと接着した電極を剥がしていきます。
髪が長いと接着剤が纏わりつき電極と一緒に毛根まで抜くことになります。
一応そんな話を先輩方から聞いていたので短髪使用で飽和潜水に臨みました。
それでも電極をベリべリ剥がされると頭皮も一緒に剥がれそうな気がします。
接着剤はある程度ふき取ってもらえますが、朝からシャワーに入ることもできないので痒い頭と闘いながら一日を過ごすことになります。
ちなみに高圧環境の特徴ある脳波所見として前頭正中部のθ波があり一定の課題や事象への注意集中、没頭、無我などの状態に関係すると言われています。
エアロバイクによる運動負荷
飽和潜水の特徴の一つとして長時間の潜水作業があげられます。
しかし深度が深くなればなるほどダイバーは高圧神経症候群や加圧関節症に悩まされることになります。
高圧環境で起きる体への影響を最小限にするため長い時間をかけ体を慣らしていきます。
飽和潜水では作業する現場(海底)へ水中エレベーターと呼ばれるカプセルに乗って移動します。
当然ながら深い海の底へたどり着くまでには長い時間を必要としますし、帰りも同じだけ時間がかかります。
移動だけでも大変な時間と人的労力を使う飽和潜水で潜水作業の効率を上げることは大きな課題の一つとなっています。
深海で安全に潜水作業ができる時間を確立するため、高圧環境で運動負荷を与え身体的な変化を見る実験に参加しました。
内容は至ってシンプル。
潜水するときに使用する呼吸ガスをマスクで吸いつつひたすらエアロバイクを漕ぐ、徐々に漕ぐペダルの重さを重くし自己判断で限界まで続ける、といったものです。
水中でないのである意味無理ができます、倒れるまでやっても息はできるので高圧環境下とはいえ安心感はあります。
とはいえただでさえ息苦しい環境で更に呼吸抵抗のあるマスクをつけるだけでも十分な苦痛があります。
最初は加圧関節症の股関節の痛みを気にしながら恐る恐る始めましたが、貴重な研究材料となるためひたすら漕ぎました。
研究担当の技官やダイブメンバーの先輩方からの𠮟咤激励を受けつつ「俺なにやってるんだろ」という疑問を抱きつつ実験という名の苦行は終わりました。
周りからの「まだ余裕じゃね?」という心無い言葉に精神を消耗させましたが下っ端は最後エアロバイクの後片付けにも精を出します。
4時間に及ぶ水中作業中の水分補給
最後の3つ目は飽和潜水作業中の水分補給の試みです。
作業時間拡大や作業強度の増加に伴い潜水員の水分補給が問題点の一つに挙がっています。
水中エレベーターに戻って休憩する方法はありますが、海上において定点保持を続けることは容易ではありません。
特に天候が悪く波や風が強いと深海で作業しているダイバーに危険が及ぶ恐れがあります。
「長時間の潜水作業でのどが渇く」という先人からの意見を聞いていたことから、給水バッグを潜水服内に忍ばせ常に水分補給ができるように準備しました。
これは公の実験ではなく私個人的に検証してみたものになります。
自衛官に限ったことではありませんが、平隊員が個人の判断で出来ることなどほとんどありません。
何事も報告、連絡、相談が大切です。
賢明な飽和潜水士なら上司に内緒で私物を持ち込んで怪しい実験をしないことです。
何か問題や事故が起きた時に責任を取るのは上司ですので、私のような自分勝手な行動は慎むほうがいいでしょう。
タンク内をモニターしているカメラの死角に入りつつコッソリ持ち込んだトレッキング用給水バッグに水を入れていました。
いざ給水チューブを咥えて潜水ヘルメットを被って作業を開始しました。
正直な感想を書くと4時間程度であれば事前に十分水分を取っていけばそれほどのどの渇きはありませんでした。
せっかく準備したのでチューブから水を飲んでみましたが、これがかなり苦しい。
呼吸抵抗がある中で呼吸の合間に水を飲むのは命がけでした。
何度か深呼吸して呼吸を整えた後覚悟を決めて水を吸う、素早く飲み込む、時々むせる、息苦しさから呼吸が乱れる、ヘルメット内を換気する。
の繰り返しになるので作業の後半では諦めて飲むのをやめました。
大してのども乾いていないのに苦しい思いをしてまで水を飲むメリットはありません。
潜水作業が終われば落ち着いて水分補給できることを考えると危険を冒して潜水中に飲むのは安全に潜れる飽和潜水のコンセプトに反します。
潜水中の水分補給の実施という私的な検証は自分の苦しさと引き換えにそれほど必要としないという結果となりました。
この飽和潜水後、私の独断検証は上司にばれましたがお咎めはなく”水分補給を試みたが実用化には今後改良していく必要がある”といった内容で、事後発表会で軽く紹介さることになりました。
まとめ
飽和潜水のシミュレーションダイブにおける実験を紹介しました。
紹介した実験以外にも記憶力や判断力、味覚の変化などについての実験がありました。
今後の飽和潜水がより安全に実施できるようになるための礎になれたことはとても名誉なことだったと思います。
シミュレーションダイブとはいえ440m相当の深海環境を体験できたうえ、誰かの役に立つことが出来る貴重な機会を得られたことに感謝したいと思います。
飽和潜水は潜水艦救難や航空機救難といった実務だけでなく実験を通じたバックアップもあることを知ってもらいたいと思います。
その積み重ねた実験の末に安全な飽和潜水があるということを忘れてはいけません。
船に乗って人命救助に当たるという花形ではありませんが、主役を支える裏方業も飽和潜水にはあることをこの機会に知ってもらい興味を持ってもらえればと思います。
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