飽和潜水で見られる世にも奇妙な怪現象

雑記

飽和潜水はヘリウムガスを使用した高圧環境下で生活をすることになります。そこは酸素とチッソの混合ガスの大気圧環境とは全くの別世界です。高密度のガスが満たされた環境で生身の人間が生活していく中で日常生活では起きることないちょっと変わった現象の一部を紹介したいと思います。

ドナルドダックボイス

ヘリウムガスを吸うと声が甲高くなることはご存知でしょうか?東〇ハンズなどでパーティーグッズの一つとして売られている酸素20%ヘリウム80%の混合ガスを充てんしたガスボンベがあります。ヘリウムガスを吸うとドナルドダックのような声になります。大気圧環境下でその声を聴く分には甲高くユニークな声に聞こえますが、これが高圧環境下になると飽和潜水で使用されている専用のヘリウムボイス修正機を用いても相手の言葉を100%聞き取ることは不可能なくらい不明瞭になります。テンダーは前後の文脈やジェスチャー、表情などから総合的に判断して何とかダイバーの意図をくみ取ります。修正機のある外部とのやり取り以上に中のダイバー同士の意思疎通は苦労を伴います。あまりにも伝わらないとイライラしますし、相手が先輩であればかなり気を遣うことになり非常にストレスとなります。私はコミュニケーションがうまく取れず飽和潜水訓練期間中、終始精神的に疲弊することになりました。飽和潜水チームの中で最年少であり経験もなく、コミュ障ぎみであったこともあり顔を突き合わせるくらいの距離で話しても伝わらない状況で先輩に対し何度も聞き返す度胸はなく、適当に相づちを打って怒られることを繰り返しました。ドナルドダックボイスは深深度ほど聞き取りにくい傾向があります。ヘリウムは分子が小さく動きやすい分、音を伝える速度が速いのでヘリウムガスの濃度が高ければ高いほどより声が甲高くなります。ちなみにヘリウムガスが充満した環境でもドナルドダックボイスにならないものがあります。それはスピーカーから聞こえてくるテンダーの声です。これはスピーカーを通した声はスピーカー中の電気信号で強制的に決定された振動数で振動させられることからヘリウム中でも変化がないと言われています。

カップラーメンは必ずこぼれる

私たちが普段生活している環境は大気圧と呼ばれ1㎠あたり約1㎏の圧力がかかっている状態です。水は空気より重たいので10m潜るごとに約1㎏づつ圧力がかかってきます。飽和潜水は何百メートルもの深海に潜ります。440mのシミュレーションダイブしたときの圧力は1㎠あたり約44㎏もの圧力が体全体にかかっていることになります。男性の手のひらの面積が平均150㎠なので約6トン、イメージしやすくするならアフリカゾウ1頭が手のひらに乗っているくらいの重さがかかっている計算になります。そんな高圧な状態で気体は大気圧時と比べ数10分の1の容積まで圧縮されることになります。普段の生活ではあまり意識しませんが、日用品や食品の中で空気や窒素を含んだものが実は多いことをご存知でしょうか?例えば食品トレイ、ポテトチップスの袋、緩衝材のプチプチ、生クリーム、アイスクリームなどです。飽和潜水で高圧力を掛けられた場合ガスを含んでいて逃げ場がないものは全て潰れます。人間の肺も例外ではありません。もし息を止めて440mまで加圧したとしたら肺の容積は地上の約40分の1以下に潰れてしまいます。そうならないよう加圧中は呼吸を止めず環境の圧力と同じになるように耳抜きも怠りません。しかしカップラーメンの容器のようにすでに空気が充填されている発泡スチロールとなると話は別です。人間のように自力で空気を排出でず空気の逃げ道もないため容器内の空気は圧縮されてしまいます。

カップラーメン容器圧縮 JAMSTEC 広報課 参照

写真では1000mまで加圧された容器ですが、440mでも同じくらい圧縮されてしまい、タンク内に届く頃には中身のカップラーメンは無残にもあふれ出ている状態となります。くれぐれもテンダーの方々はダイバーがカップラーメンが食べたいと要望があったとしてもそのままの容器でタンク内に搬入することがないようお願いいたします。ちなみに袋菓子なども面倒ですが一つ一つ穴をあけておかないと圧縮されて粉々になります。チョコレート系は加圧の際の温度上昇もプラスされるので原型を全く留めることはありません。しかし味に大きな変化はありません美味しく頂きました。

味覚、嗅覚の麻痺

高圧環境下だからなのかヘリウムガス環境下だからなのか分かりませんが、匂いに対しかなり鈍感になります。顕著なのがトイレの匂いがほとんど感じなくなることです。飽和潜水で生活するタンクでは常に環境のガスが一定方向に流れるように設計されています。トイレの位置はそのガスの流れの最風下になるように配置されているとはいえ、4畳半程度の密室空間で誰かひとり用を足したら臭わないはずがありません。しかしなぜか臭くないのです。単に臭い環境に慣れてしまっていることもあるかもしれません。また嗅覚が鈍ると同時に味覚に関しても繊細な違いを感じ取る力が弱まるように感じました。潜水医学実験隊における実験でも甘味、塩味、酸味など深深度になるほど感じにくくなっていくのが分かりました。高圧環境下で嗅覚と味覚の鈍麻については研究レポートを見つけることはできませんでしたが、経験上では確かに鈍ることを体感しました。飽和潜水期間、特に減圧中のダイバーは活動を制限されるため食欲が低下するのが一般的ですがなぜかカレーだけはよく食べると言われているのは、嗅覚や味覚が鈍っている飽和潜水中のダイバーが感じられる強い匂いと味の両方を兼ね備えているのがカレーライスだからではないかと考えられます。

飴に噛みつかれる

カップラーメンの件と近いですが、こちらの事例の方がたちが悪いので紹介します。高圧環境下ではあらゆる空気や窒素が圧縮されると説明しました。しかし440m相当の圧力が掛かっても潰れない気泡があることも忘れてはいけません。その一つとしてキャンディーの中に含まれる空気です。たかが飴玉に含まれる気泡と侮るなかれ。40㎏以上の圧力が掛かった環境ではわずかな気泡ですら凶器となります。何が起こるかというと飴をなめていきその中の気泡にまで到達すると舌や口腔内が急激な陰圧とともに吸着されます。掃除機など比べられないほどの圧力で吸引されます。飽和潜水中に飴をなめると8~9割の確率で気泡があり舌を噛まれます。つまり飴を食べるとほぼ痛い目を見るということです。気泡が大きいと酷い場合引きはがす際に流血することもあります。飽和潜水中ダイバーが口の中で気泡音をパチパチ言わせているときは十中八九痛みを我慢しながら飴をなめています。飴に含まれる気泡音以上にリスクを理解しているにもかかわらずそれを舐めているダイバーたちの姿の方が珍しいものなのかもしれません。

まとめ

飽和潜水中に起こる怪現象を紹介しました。体験談を少し重複しましたが面白い経験をすることが出来ました。飽和潜水は個人で出来る潜水ではありません。せっかく海上自衛官になったのなら経験してみる価値は十分あると思います。任務を実行する期間中は作業に集中する必要がありますが、減圧期間に突入してしまえば実験機関でなければ特にすることもありません。高圧環境で試してみたいことがあればいろいろ相談してやってみると面白い発見があるかもしれません。それは個人的な知的好奇心を満足させるだけでなく今後の飽和潜水で有益な情報につながる可能性があります。可燃物や刃物以外で搬入を制限されることはほとんどないので色々なものを高圧環境に入れてみると意外な発見があるかもしれません。

 

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