飽和潜水は、高圧状態に保たれたタンク内で、長期間生活することになる。
そこは、地上の生活とかけ離れた全くの別世界。
高密度のガスが満たされた環境で、生身の人間が長期間過ごすのは非常に過酷。
今回は、飽和潜水中の、不自由過ぎる生活について解説する。
外界との遮断
飽和潜水中は、気軽に外出できない。
高圧環境下のタンクから、外に出たらあの世行き確定だ。
理由は、減圧症という恐ろしい病気を避けるため、一度体にガスが飽和してしまったら、長時間の減圧は免れない、気長に待つしか方法はない。
4畳半程度の広さしかない減圧室の中で、成人男性6名が共同生活する、中には気の合わない奴もいるし、生活するにつれ本性が見えて嫌気がさすこともある。
しかし逃げ場はない、減圧が終了するまで途中離脱は不可能、もう修行か拷問かって感じ。
外に出れないなら、「せめて外の景色くらい見て気を紛らわせるか」と思ってのぞき窓を覗いても、見えるのは無機質な配管とバルブだけ、代り映えしない景色に気が滅入る。
スマホの持ち込みは禁止。外界の情報は、任遂行上妨げにしかならないから。
メールのやり取りはもちろん出来ないし、各種SNSで「飽和潜水なう」的なDQNが海上自衛隊にいないのは、厳然たるルールがあるから。
仮にコッソリ持ち込んだところで、肉厚100mmの金属タンク内から電波が届く保証も、超高圧環境で壊れない保証もないから、あえてルール破ってまで試すメリットはない。(過去ガラケー持ち込んで、メールしたという噂はあるが真偽は不明)
通信は出来ないが、タンクの機側で会話することは一般人(隊員家族限定)でも可能。
減圧中だけ許可されていることだが、時々ダイバーの家族が面会に来てた。
当時独身の私には関係なかったが、長期の苦行中に、ひと時の癒しを与えてくれる時間であることは間違いない。
ただ、一般人にヘリウムボイスを聴き取る能力は皆無なので、「え?もう一回って、パパ何言ってるか分からないよ( ´∀` )」からの皆ジェスチャーゲームへと移行する。
ヘリウムボイス
ヘリウムガスを吸うと声が甲高くなる。
パーティーグッズとして売られている、吸うと変声(ドナルドダックボイス)になるあれがヘリウム酸素。
大気圧環境下で、その声を聴く分には甲高くユニークに聞こえるが、これが高圧になるほど解読困難になる。
飽和潜水装置の一つに、ヘリウムボイス修正機があるが、それを用いても聴き取るのは至難の業。
テンダーは前後の文脈やジェスチャー、状況、表情などから、何とかダイバーの意図をくみ取る。
どうしても分からなければ、最終手段は窓越しに筆談。
修正機のある外部とのやり取り以上に、ダイバー間の意思疎通は不便極まりない。
伝わらないとすぐイライラする奴もいるから、先輩相手の時はかなり気を遣いストレスフル。
コミュ障ぎみの私には、顔を突き合わせるくらいの距離で話しても伝わらない状況で、他人に何度も聞き返す度胸はなく、適当に相づちを打ってて「分かってないのに適当に返事するな!」ってドナルド共に怒られてマジ逃げたかった。
ヘリウムは空気より音が伝わる速度が速く、高圧環境で密度が高いほど、その傾向は強くなるのが聞き取りにくい主な要因。
余談だが、ヘリウムガスが充満した環境でも、ドナルドダックボイスにならない音もある。
それはスピーカーからの声。
これはスピーカーを通した声は、スピーカー中の電気信号で、強制的に決定された振動数で振動させられることから、ヘリウム中でも変化がないと言われている。
ヘリウムに関して詳しくはこちらを参照
禁欲生活
飽和潜水中はもちろん仕事中だから、酒もたばこも禁止。
海上自衛官なら、船乗って長いこと航海することも珍しくないので、酒についてはアル中じゃない限り我慢は難しくない。
たばこは、タンク内では火が付かないから、どうやっても吸うことはできない。
深深度飽和潜水中の酸素濃度は、めちゃくちゃ低い(440mで0.1%未満)ことが理由。
物が燃えない酸素濃度で苦しくないの?全然苦しくない、むしろ飽和潜水中は、地上の2倍以上高い濃度の酸素を吸っているのと同じ状態。
10m潜るごとに酸素濃度が2倍、3倍、、、、になっていくといえば分かりやすいか?
嗜好品は離脱症状が出ても、物理的に物がなければどうしようもないので、何とかなる。
正直一番きつかったのは、性欲(オナ禁)
20代で1か月も我慢できる奴いるの?
トイレで抜く?
こっそりできる環境があればやったかもしれんが、24時間監視、うっすいカーテン一枚、エロ本持って堂々とトイレに籠るなんて、恥ずかしくて当時は考えられんかった。
飽和潜水中の恥さらしに興味ある趣味の悪い奴は、こちらを参照
娯楽が少な過ぎる
長い長い減圧時間の暇をいかに潰すかは、飽和潜水の裏課題だったりする。
タンク内の娯楽は限られる、食事、テレビ、本(勉強)、会話、妄想くらい。
食事は、美味しかった記憶はあんまない。
テレビは、ほぼ毎日見ていると、同じことの繰り返しに過ぎないのですぐ飽きてしまう、そもそも雑魚ダイバーの自分にチャンネル権が回ってきたことはない。
減圧中、画面に円形の黒いシミみたいなのが出来たら、それは液晶テレビの減圧症、見れなくなることも珍しくないので、壊れたら泣くしかない。
gooカーやgooバイクなどの中古車雑誌は、皮算用の飽和潜水手当をおかずに、毎日これ買える、これ欲しいと妄想を膨らませながら、擦り切れるまで何度も何度も読み返して時間を潰せた。
ひと月も同じメンバーでいると、会話のネタはほぼ尽きる。
せいぜいテレビを見て感想を言い合うくらい、陽キャのおじさんがいても、次第に会話を盛り上げる気力もなくなり、タンク内は静寂に包まれる。
暇をつぶすため、壊れることを覚悟で携帯ゲームを持ち込んだ人もいる。
事前に申請し、自己責任の範囲であれば許可される、結局壊れたらしいが、飽和潜水中は問題なく使えたようだ、数千円から1万円程度を、使い捨てられる飽和潜水員の金銭感覚が凄い。
味覚、嗅覚の鈍麻
飽和潜水中は匂いに対し、かなり鈍感になる。
顕著なのがトイレの匂いがほとんど感じなくなる。
飽和潜水で生活するタンクでは、常に環境のガスが一定方向に流れるように設計されていて、トイレの位置は、風下になるように配置されているとはいえ、4畳半程度の密室空間で誰かひとり用を足したら臭わないはずがない。
しかし、なぜか臭くない。
臭い環境に慣れて、嗅覚が鈍麻、麻痺するのは、飽和潜水中は救いかもしれない。
トイレでの用足し(大便)は、とっても気を遣う、特に夜間はみんな寝てるうえに、大用トイレは、ベッドのすぐそばに配置されている。
音やら匂いやら迷惑この上ないが、漏らすわけにもいかないので、仕方なくブリブリ。
トイレ繫がりで、飽和潜水のちょっと怖いトイレ話を、、、ダイバーがトイレ中にサニタリー排出作業を行った、誤って区画を切り離さず減圧したことで、ケツから内臓が引きずり出されたという都市伝説がある。
鼻が利かないので味覚も鈍くなる。
潜水医学実験隊における実験でも、甘味・塩味・酸味など深深度になるほど、感じにくくなっていくのが分かっている。
飽和潜水期間、特に減圧中のダイバーは、活動を制限されるため、食欲が低下するのが一般的。
しかし、なぜかカレーだけはよく食べる。
強い匂いと濃い味が、理由ではないかと思われるが、未だ誰も研究対象としていない。
唯一の救いと飴リスク
お菓子やジャンクフードに関しては、入れてOK。
休日にダイバーが注文したり、土産で外回りの職員が差し入れしてくれることもある。
タンク内で食べるマック、ケンタ、ミスドのうまさは格別!
アイスは、加圧中に結構溶けるので、カップ限定になるが、ふんわり感(かさまし)を出すため、製造工程でクリームに混ぜられた空気がつぶされるので、スーパーカップでも濃厚でなめらかになりハーゲンダッツに化ける。
炭酸飲料はぜんぜんシュワシュワしない。
砂糖水に高圧の炭酸ガスを充てんしてるから、ふたを開けると泡が出るが、飽和潜水中ダイバーが生活している圧力は炭酸ガスの圧力より高い。
だから入れられても、ぬるい気の抜けた(正確には抜けてなくて、追い圧掛けられたヘリウム炭酸)砂糖水が出来上がるだけだったりする。
袋菓子をそのまま入れると、ペッチャンコに圧縮される、面倒だが個包装一つ一つに穴を開けないといけない。
チョコレート系は、加圧時の温度上昇で溶けて、原型を全く留めてないが、味に大きな変化はない。
お菓子で注意すべきは飴。
高圧環境下ではあらゆる気体が圧縮される。
しかし、440m相当の圧力が掛かっても、潰れない気泡がある、それが飴の中に含まれる空気。
たかが飴玉に含まれる気泡と侮るなかれ。
40㎏以上の圧力が掛かった環境ではわずかな気泡ですら凶器となる。
何が起こるかというと、飴をなめてその中の気泡にまで到達すると、舌や口腔内が急激な陰圧とともに吸着される。
掃除機など比較にならないほどの圧力で吸引される。
飽和潜水中に飴をなめると、8~9割の確率で気泡があり舌を噛まれる、つまり飴を食べるとほぼ確実に痛い目を見る。
気泡が大きいと酷い場合、引きはがす際に流血することもある。
飽和潜水中ダイバーが、口の中で気泡音をパチパチ言わせているときは、十中八九痛みを我慢しながら飴をなめている。
飴に含まれる気泡音以上に、リスクを理解しているにもかかわらず、それを舐めているダイバーは大なり小なり変人なのだろう。
カップラーメンはそのままお湯を入れてはいけない
私たちが、普段生活している環境は、大気圧と呼ばれ1㎠あたり約1㎏の圧力がかかっている状態。
水は空気より重たいので、10m潜るごとに約1㎏づつ圧力がかかる。
飽和潜水は何百メートルもの深海に潜る、440mのシミュレーションダイブしたときの圧力は、1㎠あたり約44㎏もの圧力が、体全体にかかっている。
男性の手のひらの面積が、平均150㎠なので約6トン、イメージしやすくするならアフリカゾウ1頭が、手のひらに乗っているくらいの重さがかかっている計算。
そんな高圧な状態で、気体は大気圧時と比べ、数10分の1の容積まで圧縮される。
普段の生活ではあまり意識しないが、日用品や食品の中で空気や窒素を含んだものが実は多い。
例えば、食品トレイ、ポテトチップスの袋、緩衝材のプチプチ、生クリーム、アイスクリームなど。
飽和潜水で、高圧力を掛けられた場合、ガスを含んでいて逃げ場がないものは全て潰れる。
人間の肺も例外ではない。
もし息を止めて、440mまで加圧したとしたら、肺の容積は地上の約40分の1以下に潰れる。
そうならないよう、加圧中は呼吸を止めず、環境の圧力と同じになるように耳抜きもする。
しかし、カップラーメンの容器のように、すでに空気が充填されている発泡スチロールとなると話は別。
空気の逃げ道はないので、容器内の空気は圧縮される。
JAMSTEC 広報課 参照
中央の容器は、1000mまで加圧されたものですが、440mでも同じくらい圧縮されてしまい、タンク内に届く頃、中身のカップラーメンは無残にもあふれ出ている。
くれぐれもテンダーの方は、ダイバーがカップラーメンが食べたいと要望があったとしても、お湯入れてそのままの容器で、タンク内に搬入することなかれ。
縮むことは周知の事実なので、敢えて笑いを取りに行くのもありかもしれないが、ヘリウム環境で熱湯は超危険なので、試すなら自己責任で。
まとめ
飽和潜水中の不自由生活をまとめる。
- 外に出れない
- ヘリウム環境でコミュニケーション不全
- 娯楽が少なくて暇
- 味も匂いもしない
- 飴食べると痛い
- カップラーメン潰れる
不便極まりない経験だが、飽和潜水は個人で出来る潜水ではない。
話のネタになるし、不便の代償として貰えるモノはしっかり貰える(金)
その程度なら不便でも苦痛でもない!と感じたツワモノは、飽和潜水員となり1か月300万修行をしてみるのもいいだろう。